ムジカボヘミカライブラリー
収集楽譜 紹介コラム (1)  1992/10

ドヴォルジャーク 即興曲 & ユモレスク
 
 ドヴォルジャーク(1841〜1904)は、昨年(1991年)生誕150年を迎えた。
 この二つの作品は即興曲が1883年、ユモレスクが1884年都、前後して作曲されているが、この頃のドヴォルジャークは、ブラームスに認められたことによってスルヴ舞曲第1集(1878)や交響曲6番(1880)などを発表する機会を既に得ていた。また、1882年に出版されたコミック・オペラ「いたずら百姓」がドレスデンで大成功を収めたことで、ハンスリックやウィーン宮廷歌劇場総監督のホフマンからドイツオペラの作曲を勧められた。そのため彼は、国際的に活躍するオペラ作曲家として生きるか、あくまでチェコの作曲家ちすて生きるかという、いわば人生の岐路にたたされた。その後、結局ドイツオペラの作曲は諦めたが、そのような時期にこれらの二曲はかかれたのである。 
 
 即興曲は、1883年に「Humoristicke listy(ユーモアや漫画などがのっている新聞 [ホラーク先生談]」の依頼によって、その新聞の付録として作曲された。この曲は出版された当時はたいした興味ももたれていなかったが、ドヴォルジャークの死語12年たってジムロックから再出版されて初めて注目された。
 アレグロ・スケルツァンドと指示されたこの曲は、二つの中間部とコデッタを持つ自由はロンド形式で、ニ長調という調性をとる。主部は優秀を帯びた旋律で始まり、リズムは変化された冒頭モティーフが、高さを変えて繰り返される。第一中間部は、主部とは対照的にリズミカルで、躍動感に満ちている。そして、主部の冒頭フレーズが再び現れると、ニ長調の主和音による経過部分を経て、第二中間部となる。第二中間部では、甘美な旋律がまるで弦楽四重奏のようにピアニッシモで奏される。再び主部が現れた後、第一中間部のモティーフを用いたコデッタがクレッシェンドし、盛り上がりのうちに曲を閉じる。

 ユモレスクは、1884年に、ピアノ作品集の出版を計画していたプラハの出版社V.Urbanekの依頼に応じて作曲された曲である。
 この曲はヴィヴァーチェと指示されており、わずか四ページの短い曲だが、全体は三部形式で書かれている。まず主部は嬰ヘ長調で、付点リズムを両手が交互にかけあいながら、軽やかな旋律が流れていく。その後、シューマンを想起させるようなフレーズをはさんで、再び冒頭の旋律が現れる。ニ長調の中間部はオルガン前奏曲のようなテクスチュアで書かれており、リズミカルは主部と対照的である。その後、繰り返された主部では、主題のモティーフを用いたエコーのような結尾部によって、静かに曲が終わる。
 
 【ホラーク先生からひとこと】(即興曲について)
 最初の部分は、とてもメランコリーな感じの音楽ですね。なんと言ってもこの曲の中で一番素晴らしいのはニ長調のトリオの部分で、これがあるからこの曲のあると言ってもいいくらいです。この部分はピアノで弾くのがちょっともったいないくらいで、ーケストラや弦楽器でひいてほしいです。また、この部分のスタイルは、和解時期のスークにとてもよく似ていて、どちらだかわからないほどです。ドヴォルジャークはスークの先生でしたが、生徒が先生に似るのがよくあるのと同じくらい、先生が生徒に似ることもあると思います。和声的には印象派に近いところもあります。コンサートのアンコールにしても良い曲です。


ムジカボヘミカライブラリー
収集楽譜 紹介コラム (2)  1993/7

ヤナーチェク ソナタ<1905年10月1日>「街路より」
 
 この曲は、レオシュ・ヤナーチェク(1854〜1928)の現存する唯一のソナタである。
 ヤナーチェクにおけるピアノ音楽は、生まれ故郷であるモラビア地方の民謡から引き出した短いモティーフが特徴的で、自然で自由な作風ゆえに構成上は性格的小品のかたちをなすものが多い。また、有名な「草かげの小径にて」に代表されるように、その心情をもっとも自由に吐露する表現集団としても重要なものであった。
 この曲のかかれた1905年当時、チェコ・スロバキアあオーストラリア帝国の属国であり、ドイツ系の住民が支配層として、権力を握っていた。この圧政は1918年の独立回復まで続くのだが、そんな中ある事件が起こった。
 その年の10月1日、モラビア地様の中心地ブルノに「チェコ人のために大学を作ろう」という運動を支援するデモが行われた。それに反対するドイツ人との間に街頭で小競り合いがおき、銀圧のため軍隊が出動した。そこで二十歳の若いチェコ人の労働者が射殺され、その無惨な死を目の当たりにしたヤナーチェクは非常に憤慨してこのソナタを一気に書き上げた。
 曲の冒頭にヤナーチェク自身がこう下記連ねている。

ブルノの芸術家の家 その白い大理石の階段を血で汚して
一介の労働者フランチシェク・パヴリークは倒れた
大学設立のための請願にやってきただけなのに
残忍な殺戮者たちの手にかかってコロされてしまった
レオシュ・ヤナーチェク

 本来この曲は全三楽章から成り立っていたが、初演の直前に彼は第三楽章を焼き捨てた上に、プラハでスークやノヴァークと共同で作品発表会を開いた後、彼らの作品を聴いたショックのあまり、残りの楽章もモルダウ河に投げ捨ててしまったのである。
 しかし幸いにして、初演したピアニストが前もって第一、第二楽章を写譜しておいたため、今日我々の部分的ながらこれを耳にすることができるのである。

 二つの楽章にはそれぞれ「予感」と「死」というきわめて暗示的な標題がつけられており、ヤナーチェクの深い悲しみをしのばせる。 第一楽章冒頭、右手に現れる物憂げな第一主題は、4小節目に16分音符のオスティナートによって突然中断される。このオスティナートはその後も形を変化させながらもつねにつきまとって、第24小節から内声に現れる叙情的な第二主題をも落ちつかないものにさせている。それ故、このオスティナートこそ、いわゆる「予感」を表現するものと考える事も可能だろう。
 第二楽章の主題の音列もまたこのオスティナートから派生したものだが、ここではリズムを付点に変化させた後、次の4分音符でいったんとまる。動と静をみごと対比させたこの手法によって、ヤナーチェク派その「死」に対するやりきれなさを祈りに昇華させたのであろう。

【ホラーク先生からひとこと】
 ヤナーチェクの音楽は、当時の音楽的ファッションとやや離れていたこともあって、ノヴァークなどに比べて低い評価しか得られませんでした。しかし今はどうでしょう。
 演奏会のプログラムにのる回数は全く逆転しています。かれの内面的は叙情性は独特の響きが評価される時代がついにやってきたのです。これが歴史のおもしろさですね。
 彼が橋から投げ捨てた例の楽譜は、白鳥にようにひらひらとしてなかなか沈んでいかなかったそうです。もしも第三楽章があったなら、と想像すると、かえすがえすももったいないことをしたなぁと思います。
 


ムジカボヘミカライブラリー
収集楽譜 紹介コラム (3)  1994/7

マルティヌー 二台のピアノのための三つのチェコ舞曲
 
 ボスフラフ・マルティヌー(1890〜1959)は、その生没年が語っているように二つの大戦を経験しており、同時代のすぐれた芸術家達がそうであったように、彼もまた抗い難い時代の波に翻弄された。最初ヴァイオリニストとして出発したマルティヌーだが、幼い頃から作曲の才能も示し、12才で現存するもっとも早い作品を残している。その後プラハ音楽院で学び、一時期はチェコ・フィルハーモニー管弦楽団でヴァイオリンを弾いていた。1923年33才の時にパリに留学、作曲家として頭角を現すすようになった。しかし、次第にヨーロッパには不穏な空気が流れ、ナチスのチェコ弾圧が強まる中、1938年48才の時の規制を最後に二度とこきょうの土を踏むことはなかった。
 この「二台のピアノのための三つのチェコ舞曲」は、1949年マルティヌー59才の時、ナチスに追われ亡命したアメリカで書かれたものである。この頃から彼は、戦争の恐ろしさ、悲惨さを歌いあげた反戦的な傑作を次々都発表しているが、この曲は題名が示すとおり、故国チェコの舞曲のリズムによる3楽章のソナタのような趣を呈しており、全曲は主に調性的な書法がとられ、パリ留学時代に学んだとされる印象主義の手法や滞米時代に接したジャズの影響も随所に見られる親しみやすい曲想になっている。二台のピアノのリズムの組み合わせが巧妙かつ精緻で、二台のピアノというアンサンブルの特性を十分に生かした演奏効果の華やかな曲である。
 第1曲アレグロは、冒頭の二台のピアノのトゥッティによる非常に力強く鋭い付点リズムが印象的である。全体は主にこの付点リズム・モティーフに支配されており、エネルギッシュに曲が展開する。
 第2曲アンダンテ・モデラートは、一転して牧歌的でおおらかな雰囲気で始まるが、途中、ジャズ風なリズムや印象主義的は書法を交えながら、多調的な響きのクライマックスに達する。
 第3曲アレグロはトッカータ風なリズムや印象主義的な華やかな曲である。第2テーマでは二台のピアノが一つの旋律線をかけあいながら演奏し、あたかもステレオのような効果が得られる。中間部にはカノンによる動きや民族舞曲的なリズムも現れ、多彩である。コーダは大変輝かしく熱狂的で、興奮のうちに曲を閉じる。

【ホラーク先生からひとこと】
 マルティヌーのことで、とても面白いのは彼の生まれのことです。彼は、今でも古代ヨーロッパの壁が残っているようなボヘミアの小さくて古い町、ポリチカで、彼の父が鐘楼守をしていた教会の塔の上で生まれたのです。今では博物館になっているその教会の、たくさんある階段を登って鐘の所まで行くと、そこはバルコニーの様になっていて、一度外へ出てしまいます。そして良く見てみると鐘の上に部屋があり、マルティヌーはここで1900年(10才)の時まで生活していたそうです。「高い塔の上から見ると最初から物はなんでも小さく見えたし、雲や星などが私にとっては親しい環境だった。このような場所で生まれ育った事は、私の作曲にも影響を与えた。」とマルティヌーは後に言っています。
 



ムジカボヘミカライブラリー
収集楽譜 紹介コラム (4)  1995/7

ドゥシーク ピアノソナタ ホ長調 Op.10-3
 
 ドゥシーク家はボヘミアの高名な音楽家一族であるが、なかでもヤン・ラジスラフ・ドゥシーク(1760〜1812)は作曲家件ピアニストとしてその中心的な地位をしめる。
 彼の作品の中で、もっとも身近に接するものはソナチネ・アルバムに収録されいるト長調のソナチネである。残念なことに、その他のピアノ今日を中心とした約400曲にのぼる作品群は、演奏のプログラムにとりあげられることも、また研究の対象になることもほとんどなく、ほぼ忘れられた存在といってもよいだろう。しかし、その自由で伸びやかな才気に溢れた作風は、様式的には古典派の域を出ないもののロマン派への扉を確かに開きつつあった。
 彼はプラハ近郊のチャスラフに生まれ、生涯にわたってロンドン、パリ、ハンブルクなどを転々と自作自演を売りもとして渡り歩いた。その演奏はフンメル(1778〜1837)、カルクブレンナー(1785〜1849)などと共に最初期のヴィルトゥオーゾの1人としてカンタービレ奏法や正確な技術で名声を博した。また、ドゥシークが演奏会でピアノを舞台で横向きに置いた最初の演奏家とする報告もある。(ヴァーツラフ・ヤン・トマーシェクによる報告)
 彼の音楽の特徴は、自身のピアニストとしての名人芸を発揮するための技巧的は多彩さと美しい旋律、そして時代の最先端を良く斬新な和声感に要約されるが、とくにその半音階的和声進行や非和声音の扱いなどはすでに志向としてロマン主義的である。
 
 このソナタは1789年、フランス革命のさなかパリ滞在中に書かれた一連の作品の一つである。第一楽章がホ長調、第二楽章がホ短調から成り、形式的にはかろうじて伝統的な手法におさまっているが、その音楽的は拡がりは、はちきれんばかりの生気と共にまさに枠から溢れ出ようとしている。
 第一楽章の冒頭、強弱を対照的に使った主題がまず提示される。これが半音階的手法で徐々に展開される。この部分の右手のフレーズの扱いとハーモニーの洗練された組み合わせ方などは、この時代としては革新的なものでメンデルスゾーン、ショパンにつながる道を強く連想させる部分の一つである。第二主題はきわめて瑞々しく叙情的であり属調によって提示される。途中大きなリピートをはさんで平行調によって第一主題が再現されるが、その後の展開手法は息つく暇を与えない分散和音、クロマティックなオクターヴの連打、急速は3連符など名ピアニストであった彼を彷彿させるものがある。
 第二楽章は一転して激しさを内包するスタッカートのリズム動機がまず提示される。なかでもsfが効果的に使われて非常に切迫した響きを作っている。そののち、ショパンの第3番のソナタの終楽章の主題の原形を見つけたかの様で楽しい。また、メンデルスゾーンのスコットランド交響曲の歌も聞こえてくる(ちなみにメンデルスゾーンは1842年に作曲した)

【ホラーク先生からひとこと】
 ドゥシークはピアノの大変な名手でしたので、技術的に難曲ぞろいです。この曲もウェーバーやメンデルスゾーンの書法につながる部分がたくさん見受けられます。 
 ただ彼はお天気屋の性格ですで、Op.77のヘ短調のソナタのように第一楽章はあたかもシューマンかブラームスに匹敵する素晴らしさなのに、終楽章になると、とたんに平凡な作品になってしまします。このあたりに演奏会のプログラムにのる回数の少ないげんいんがあるのではないでしょうか。
 


ムジカボヘミカライブラリー
収集楽譜 紹介コラム (5)  1996/7

スメタナ 海辺にて(演奏会用練習曲) Op.17
 
 喜歌劇「売られた花嫁」や交響詩「我が祖国」における民族主義音楽的成功から「チェコ音楽の父」とよばれているベドルジフ・スメタナ(1824〜84)は、ピアノ音楽の分野でもすぐれた作品を多数残している。特にチェコの民族舞踏であるポルカを芸術的に昇華し様式化した点で、マズルカやポロネーズに対するショパンの功績と並べられることもある。しかし、ほぼ同年代の ドヴォルジャーク(1841〜1904)の他の作品にくらべると、演奏会のレパートリーにのることは決して多いとは言えないだろう。そのひとつの要因として、ドヴォルジャークがどちらかといえば伝統的(当時で言うドイツ的)で国際的な作曲家であるのに対し、スメタナはより民族的色彩の濃い、インターナショナルな意味で輸出しにくい作曲家であることがあげられよう。
 スメタナが生を受けた頃のチェコはオーストリアの支配下にあり、そのためその政治的抑圧や宗教的弾圧からチェコの民族文化を守ろうとする、民族自立のための運動が高まっていた。この運動の頂点ともなった1848年の革命に参加したスメタナはこの革命の失敗後の弾圧の時代をスウェーデンのイェーテボリ音楽協会の指揮者として迎えられ、そこですごしている。その間、ワイマールにリストを訪問し、その影響のもとに、最初の交響詩を作曲している。そして1859年のイタリアのオーストリアにたいする圧倒的勝利を知ると、祖国でなすべき使命を感じ1861年に帰国、新しい民族主義的音楽の樹立に指導的役割をはたしていくことになる。
 そうした頃(1861年)に作曲された「海辺にて(演奏会用練習曲)」は「超絶技巧練習曲」をはじめとするリストの数々の演奏会用練習曲を彷彿とさせるヴィルトォーゾな曲で、激しい波が打ち寄せては引いていく様を模倣している。冒頭のカデンツァ風の激しいパッセージのあと、32分音符の波の動きの上にテーマが現れる。ここではスメタナは波の動きをより生き生きと表現するために非常に細かいデュナーミクの指示をあたえている。(例えば1小節毎にppp→sempre pp→pといったような指示)。32分音符から8分音符の3連符に音型が変化したクライマックスでは、さらに大きなテクニックとスケールを要求されており、緊張感も最高潮に達する。ついにいたった冒頭と同じカデンツァの後、静かに波が引いていくように曲が終わる。
 
【ホラーク先生からひとこと】
 この曲はスメタナのピアノ曲の中でも有名なもののひとつで、リスト風の曲といって良いでしょう。彼のスウェーデン滞在中に見た海の印象を表していて、波の様子を真似しています。最初から最後まで激しい曲で、アンコール曲としても適していると思います。
 



ムジカボヘミカライブラリー
収集楽譜 紹介コラム (6) 1997/7

ドヴォルジャーク 伝説(ピアノ連弾のための) Op.59

「スラヴ舞曲 第1集」の成功により名声を得つつあったドヴォルジャーク(1841〜1904)は、まったく自発的にくつろぎを求めるかのように「伝説」という名の全10曲からなる連弾の組曲を、40才の時に書いた。この時代の彼は、舞曲的要素の強いモティーフを多用した民族主義的作風に傾いていた。彼は「伝説」というネーミングを上手に使って、曲全体に神秘的で直感的は詩情をちりばめている。その濃淡は様々だが、叙事詩的な英雄の伝説や瞑想風の静けさ、ボヘミアの牧歌的気分などが、彼特有の叙情性にのせられて豊かに表出されている。
 当時のウィーンの高名な音楽評論家ハンスリックは「この上もなくかわいい小品集(中略)すべてが美しい」と絶賛した。またブラームスも「私がこの<伝説>に夢中になっていることを作曲者に伝えて下さい。本当に楽しい作品です。その新鮮な生き生きとした創意の豊かさを私は羨ましくてなりません」と、出版社(Simrock)あてに書き送っている。
 「伝説」はモティーフやその展開技法などにおいて「スラヴ舞曲」の姉妹版としてみられやすいが、「伝説」のほうが、より生身の人間くささが感じられる。こうしたぬくもりのようなものに「スラヴ舞曲 第1集」の華々しい成功を受けての肩ひじ張らないドヴォルジャークの人間的な余裕を感じることができるだろう。
 また、後に出版社の希望により管弦楽版も彼自身の手により編曲され、巧妙なオーケストレーションによってこの曲集の新たな世界がひろがった。ピアノ連弾版との優劣はともかく、ピアノの楽譜をながめながら管弦楽版を聴くことで、作曲者の望んでいた音色の一端を知ることは、他の多くの連弾曲にはない楽しみ方とも言える。

【ホラーク先生からひとこと】
 私は「スラヴ舞曲」の派手さも結構ですが、この「伝説」の地味ながらもやさしくて深い内容が好きです。なにか詩的で、昔を思い出すようなあたたかい雰囲気があります。和声などをアナリーゼしてみると、「スラヴ舞曲」よりも通好みで高級だと思います。
 また、オーケストラ版だと色彩感はあっても音楽としては平凡に陥りやすいですが、連弾だと二人だけですからアゴーギクやデュナーミクなどを即興的に変化させやすく、この音楽の本質により迫りやすいと思います。いずれにしても、とりあげられる機会の少ない隠れた名曲です。ボヘミカ会員の皆さんが率先して紹介してほしいものです。
 


ムジカボヘミカライブラリー
収集楽譜 紹介コラム (7)  1998/7

ヤナーチェク 霧の中で

ヤナーチェク(1854〜1928)のまとまったピアノ独奏曲としては最後の作品である「霧の中で」は、1912年に作曲された。(この後に作曲されたピアノ曲は1928年にかかれた「思い出」という小品があるのみである。)
 当時、彼は既に58才であったが、第2の故郷といえるブルノ以外では、作曲家としては殆ど認められておらず、モラヴィア民謡の収集家とてしかその名は知られていなかった。1903年に完成したオペラ「イエヌーファ」もブルノでは上演されたものの、プラハで上演され成功をおさめるのはずっとあとの1916年のことである。その間の彼は家庭的にも幸せな状況にあるとは言えずまさに深い失意の中にあった。これは、そのような彼の不安定な精神状態を色濃く反映した作品であり、もの悲しい旋律、拍節から解放された自由はリズム、荒々しいテンポの変化、しつこいくらいに繰り返される動機の展開などに、不安や苦悩が表現されている。全部で4つの曲からなっており、どれもABA 三部形式を基礎としてつくられている。

第1曲 アンダンテ
もの悲しい旋律を微妙に変化する和声からなるオスティナートの伴奏が支えている。中間部には民族風の旋律も導入されている。

第2曲 モルト・アダージョ
全体に強拍を回避することによって不安感が強調されている。冒頭のためらいがちな旋律と、それと交互に出てくる3拍子のプレストの部分は同じ動機に依っている。

第3曲 アンダンティーノ
穏やかで素朴な旋律の主要部と突然のffで始まる中間部からなる三部形式。「この中間部には、不運な運命にも負けぬ、といった信念の強さが感じられます<ホラーク先生談>」 この主要部と中間部にも二つの共通な動機が含まれている。

第4曲 プレスト
不安感をつのらせる緊張感にみちた狂詩曲的楽曲。拍子やテンポはめまぐるしく変化しほとんどやすらぎは与えられない。最後に第3曲の動機が現れる。

【ホラーク先生からひとこと】
 「霧の中で」という題名は自然の印象を表現したのではなく、作品が認められないというヤナーチェクの心の苦しみや悩みを描いたものですが、その中には自分の考えを貫く強い信念も感じられます。この曲は最近日本でもよく演奏されるようになって私も驚いています。小品の集まりである「草かげの小径」よりも組曲としてまとまっているし、リサイタルのプログラムにものせやすい曲だと思います。 
 



ムジカボヘミカライブラリー
収集楽譜 紹介コラム (8)  1999/7

スーク 愛の歌 Op.7-1 
    お母さんのこと Op.28

ヨセフ・スーク(1874〜1935)は、ヴィーチェスラフ・ノヴァーク(1870〜1949)とともに、ドヴォルジャークの元で作曲を修め、その後継者とみなされていた。1892年以来、有名なボヘミアカルテットの第2ヴァイオリン奏者を勤める一方で、ピアノの腕前も確かでコンサートで自作のヴァイオリン曲のピアノパートを弾くこともあった。1898年にドヴォルジャークの娘と結婚し、ヴァイオリニストのスーク(1929〜 )は孫にあたる。
 初期の作品は、性格的小品としてまとめられ、ドヴォルジャークやR・シュトラウス、さらにフランス印象派の影響を受け、叙情的な旋律、ロマン主義的な豊かな和声、流暢なパッセージを特色とする。「愛の歌」Op.7-1はその代表的な作品である。
 1893年から1905年にかけて多くのピアノ曲を書いたが、1904年にドヴォルジャークが、1905年に妻オチルカが相次いで亡くなると、春と愛の歌をつくるのをやめてしまった。1907年に作曲された「お母さんのこと」Op.28は、幼くして母を亡くした自身の息子のために生前の母の姿が細かく描写され、非常に個人的な世界を有している。民俗音楽の影響は少なく、夢見るようで少し悲しげな内省的な雰囲気をたたえた5つの小品で構成されている。
 
1・お母さんがまだ少女の時
付点リズムの軽やかな伴奏にのって、愛らしいメロディで少女時代のお母さんが表現されている。中間部には「愛の歌」の第1テーマがあらわれる。

2・いつか春の時
アダージョとアレグロを行き来しながら、春の弾むような気分とカッコウのさえずりが描写されてる。

3・お母さんが夜なか、病気の子供に歌った歌
左手のB のオスティナートが病気のつらさをあらわしている。

4・母心
不規則なオクターブのリズムが心臓の音と心の動きを象徴している。

5・思い出とともに
ゆったりしたメロディで息子に母の思い出を語りかけている。

【ホラーク先生からひとこと】
スークのピアノ曲は「春」がよく知られていますが、「愛の歌」がはいっているOp.7の曲集は、他の曲もおもしろいです。
 スークはドヴォルジャークの弟子で、その娘と結婚しました。けれどもその妻が早くなくなってしまったので、お母さんのこと覚えていない息子のために「お母さんのこと」をかきました。その後に書いた「人生と夢」はモダンな名曲で、地味な曲ですが、スークの傑作のひとつといえるでしょう。 
 



ムジカボヘミカライブラリー
収集楽譜 紹介コラム (9)  2000/7

スメタナ 夢 

ベドルジフ・スメタナ(1824〜84)は、自身がすぐれたピアニストであったこともあり、生涯を通じて多くのピアノ作品を残しているが、6曲の性格的小品からなる「夢」は、彼が聴力を失った直後の1875年にかかれた、もっとも円熟した作品と言えよう。
 当時スメタナは、聴力を失ったことによりチェコ音楽界での公的な立場に終止符を打たれ、深い苦痛を強いられる日々であった。しかし、幸いにもベートーヴェンと同様にピアノなしでも作曲することができたため、この致命的とも言える肉体的障害を乗り越えて、連作交響詩「わが祖国」、弦楽四重奏曲「わが生涯より」に代表されるような充実した作品を残した。
 「夢」は、彼のこうした不幸を伝え聞いて、精神的、経済的援助をさしのべた彼の生徒たちに、その好意に応える形でささげられた作品で、題名からも推察できるように過去の美しい日々の思い出が描かれている。
 第1曲「失われた幸福」は、当時のスメタナの心的状態を思わせるメランコリー名曲で、技巧的なカデンツァにつづいて情熱的な主題が現れる。「過去の幸福」を回想するかのようなピアニッシモの旋律を、突然激しいフォルティッシモ和音が遮り、劇的に曲を閉じる。
 苦しみに対する穏やかなあきらめのような第2曲「慰め」は、主題の素材を用いた導入部に誘われるようにして、叙情的な主題が奏でられる。一方中間部は対照的に、厚みのある和音による激しい性格である。
 第3曲「ボヘミアにて(田園風景)」は「チェコ音楽の父」といわれたスメタナらしい民族主義的な作品である。ただし、ここではその性格は、様式化され洗練されたポルカの形式で表現されていると思われる。
 つづく第4曲「客間にて」は、貴族社会の社交界の思い出を描写した3拍子の舞曲で、溜息のような途切れがちの旋律が、ありし日の華やかさとそれを失ったもの悲しさを思い起こさせる。
 一転して第5曲「お城のそばで」では、過去の英雄たちが現れたかのような重厚な音楽で、左手のオクターヴの動きが印象的である。
 第6曲「チェコ農民の祭り」は、力強いリズムの主題に支配された民族的色彩豊かな舞曲で、この曲集の終曲を飾るのに相応しい、華やかで技巧的な曲である。 
 


ジカボヘミカライブラリー
収集楽譜 紹介コラム (10)  2001/7

スメタナ チェコ舞曲集 第2集 

ベドルジフ・スメタナ(1824〜84)は、オペラ、交響詩、室内楽などにおいて、たくさんの民族舞曲を取りいている。彼の多数のピアノ作品においても、舞曲は大きな位置を占めている。残されいる作品としては、最初の8才の時に作曲したギャロップに始まり、最後の大きなピアノ作品である「チェコ舞曲集」にいたるまで、多くの舞曲(特に、ポルカが大半を占めている)を残している。
 1874年に完全に聴覚を失って以来、経済的理由、また精神的安静のために、プラハを離れ、ヤブケニツ村に住む娘のところに身を寄せていた。この間に、交響詩「わが祖国」、弦楽四重奏曲「わが生涯より」など重要な器楽曲を、次々と作曲し、チェコ舞曲集もかかれたのです。
 「チェコ舞曲集」は、彼のピアノ作品において、最後でかつ頂点をなしている重要な作品である。これは、2つのシリーズからなっており、それぞれ違う時期に、作曲されている。第1集は、1877年春に、プラハで作曲され、第2集は1879年夏に、娘むこのヨゼフ・シュヴァルツのところで作曲された。第1集は、4曲のポルカからなり、第2集は10曲の違う舞曲から構成され、標題がつけられている。
 第2集のそれぞれの曲の標題は、チェコの民謡とことわざを集めたErben のコレクションから採っており、また、これらの舞曲がどのように踊られていたかを覚えていた彼の恩師であるSuchyの助力も得た。スメタナは作品の基礎に、民謡の旋律、あるいは彼自身のオリジナルではあるがチェコの民族精神に沿ったものを用いた。それぞれの曲は、対照的に並べられており、激しい曲の次には、叙情的なものがおかれている。

1・フリアント 
農民の誇りを表現している。3拍子で書かれてあるが。2、2、2、3、3、の変拍子となっている。

2・スレピチュカ (小さいめんどり)
やさしくユーもラス。2拍子のポルカであるが、3拍子が間にはさまっている。この最初の2曲は、拍子のかわることで特徴づけられている。

3・オヴェス (からす麦)
単純な短い民謡の旋律を土台にしているが、住めた母それを魅力的な叙事詩へと広げている。次の重たいメドヴェドと対照的に配置している。

4・メドヴェト (熊)
3、3、2、2、の変拍子の特徴的な踊り、

5・ツィプリチカ (たまねぎの踊り)
ロマンティックなもの思いに悩むような舞踏。有名な民謡を使っている。

6・ドゥパーク
穏やかなバグパイプ吹きの3重奏を、2度、間にはさんだエネルギッシュな踊り。

7・フラーン (騎兵)
チェコでは誰でもが知っている民謡を取り入れている。

8・オブクロチャーク
からかうようなユーモラスな踊り・

9・ソーセッカ
穏やかな雰囲気の踊り。

10・スコチナ (跳ねるダンス)
激しい踊りで、1つ前の曲と対照的にあっている。

【ホラーク先生からひとこと】
 チェコ舞曲集第2集は、スメタナのピアノ曲の中で、一番有名な曲です。小規模ですが、ブラームスのハンガリー舞曲と肩を並べられるくらい、内容も充実しています。それぞれの曲は、性格が違い、短い前奏の後、テーマが出てきます。スメタナは、すぐれたピアニストでもあり、技術的にも難しく、ハイレベルは作品となっています。チェコで、もっともよく演奏され評判がよく人気の高い曲なので、多くの方々に、もっと演奏してほしいです。