ムジカ・ボヘミカ演奏会
チェコピアノ作品・演奏者による曲目解説
第10回〜
ノヴァーク ソナタ エロイカ Op.24(本邦初演)
第10回演奏会(94/12/5)
ヴィーチェスラフ・ノヴァーク(1870〜1949)は自然と民謡を愛した作曲家である。かれは、プラハ音楽院で作曲をドヴォルジャークらに学んだ後、母校で教鞭をとり、多くの後進を育てた。
彼の作品は、シューマン、ブラームス、ドヴォルジャーク、の影響の濃いドイツロマン主義から出発したが、
1896年ヤナーチェクとともにモラヴィア、スロヴァキア地方へ旅行し、その地方独特の旋法や和声に惹かれ、民謡の収集研究をする。また、ドビュッシーに
代表される印象主義的な技法も好んで使っている。
モラヴィア地方の民謡「Okolo
Hovoran」(ホボラン村の辺りで)が、ソナタエロイカOp.24の主題になっている。ノヴァークは、このソナタについて友人に宛てた手紙のなかで、
「一楽章は、チェコとスロヴァキア地方の独立したいという力強いスローガンを表現し、二楽章では、苦しいスロヴァキア人の悲しみと勝った喜びを表現した」
と述べている。
さて、エロイカとは何を意味するのだろうか。このソナタが、作曲された1900年は、チェコスロヴァキアは
オーストリアハンガリー帝国に支配される中で、民族の独立運動が活発な時期であった。そこで推測できるのは、ヤーノシーク(チェコ人のロビンフット)の様
な英雄の存在である。または、ノヴァーク自身の愛国心のあらわれかもしれない。
第一楽章は、ソナタ形式で書かれている。まず、民謡から引用された第一主題が声部、調性を変化させながら力強
く繰り返された後、叙情的は第二が苦笑が現れる。展開部が、第一主題を用いてされに力強く、波のうねりのように激しく表現された後、第二主題、第一主題の
順に締めくくられる。
第二楽章は、2つの部分からなっている。実際には、アンダンテメスト都記された第二楽章と、アレグロエネルジ
コと記された第三楽章が合わさったものである。アンダンテメストは、自由な形式で書かれている。ここで使われている主題は、第一楽章の第一主題から生まれ
たものである。そして続くアレグロエネルジコは、ロンド形式で書かれているが、この民謡舞踏のような軽快な主題もまた第一楽章の第一主題からうまれてい
る。これのことから、ノヴァークは、このソナタにおいて楽章間の統一を意図したと言える。さらに最後のに第一楽章の第一主題がそのまま現れ、締めくくられ
ている。
ノヴァーク 冬の夜の歌 Op.30
第11回演奏会(95/12/6)
ヴィーチェスラフ・ノヴァーク(1870〜1949)は、スークと共にドヴォルジャークの一番弟子であった。また、モラヴィア・スロバキアの民俗音楽を研究し、近代的な民族主義音楽へと発展させた作曲家である。
冬の夜の歌は1903年に作曲され、チェコの印象派とも言えそうな叙情的でピアニスティックな作品になっている。
<月の夜の歌>ノヴァーク自身の恋愛の思い出を曲にしたとも言われてる。純粋な「恋心」であるメロディーを反復することにより、より激しい、「愛情」へと変化していく。そのヴァリエーションはピアニスティックであり、ドビュッシー的は響きを醸し出している。
<嵐の夜の歌>雷鳴がとどろき、激しい風が荒れ狂っている。その音は悪魔が不気味に微笑しているかのようである。ときどき現れるメロディーは、それに対する人間の恐怖心-という様な外的-内的の対比のはっきりした曲である。
<クリスマスの夜の歌>近年日本のクリスマスと言えば、ケーキにプレゼント、一年の前から予約するレストラ
ン・・・とお祭り騒ぎだが、本来は家族と共に過ごし食後は教会へミサに出かける、という宗教的にもっとも大事な日なのである。冒頭は雪が降り始め、静寂の
中を教会の鐘が遠くから聞こえてくる、という昔、チェコの村では、村人達が交替で夜の見回りをしており、その際用いられたホルンの音が静かに流れている。
夜も更けてホルンの音が次第に近づいてくる頃、可愛らしいスケルツァンドが現れる。これは子供がプレゼントをもらってはしゃいでいる姿であろう。そして教
会からは賛美歌が流れ、この厳かで喜ばしい一日が過ぎていくのである。
<カーニバルの夜の歌>華麗な冒頭の主部の後、続いて現れるメロディーは南モラヴィア地方の民謡的で、村人達
がいろいろな仮面や兜をかぶり、村を仮装行列しているような陽気な曲である。ノヴァークが好んで使う、高音部へ移行していくにつれて、馬鹿騒ぎとなってい
く。皆、酒を飲み、歌い、踊り、佳境にナイル。そして酔っぱらい達の足下もあやしげになって、いつの間にか眠ってしまった頃、突然「キッキリキー」と鶏の
鳴き声が響きわたる。夜明けと共に村人達は二日ようで頭痛もひどく、重い足どりで昨夜の大騒ぎを思い出しながら帰途につく。
ヤナーチェク 草かげの小径にて より3曲 / ソナタ「1905年10月1日」
第12回演奏会(96/12/10)
ヤナーチェク(1854〜1928)は、モラヴィア地方北部に生まれ首府ブルノで教育者、民俗学者としても活躍した
チェコの代表的な作曲家であるが、1916年にオペラ「イェヌーファ」がプラハで成功をおさめるまでは、民謡採集や発話旋律の研究によって民俗学者として
認められていた。発話旋律とは、話し言葉が口にされるときの抑揚が描く曲線を採譜したもので、真実味を持って人々に語りかける音楽としてヤナーチェクの音
楽語法に取り入れられた。また彼の作品は小品だけでなくソナタも、ごく少数の芽となる動機の反復と変容から全体が植物の生長のようにできあっがっていく独
自の構成をもつ。
「草かげの小径似て」は、民謡で「母のもとへの小径にままるで雑草のようにクローバーがはびこっている」と歌
われるようにモラヴィアの民族詩に追憶を意味する。描写的表現を持つ第1集に対して第2集では標題がないが、過去の追憶を辿る様な気分で満たされている。
1911年までに作曲され、1942年に遺作として出版された。
「1.10.1905」は、チェコ語の大学をブルノにも創立しようとするデモに参加し、軍隊に殺された青年の思い出にささげる献辞を付記した。
ブルノの芸術家の家、そのしろい大理石の階段を血で汚して
一介の労働者フランテイェク・パヴリークは倒れた。
大学設立のための請願にやってきただけなのに、
残忍な殺りく者達の手にかかって殺されてしまった。
第1楽章「予感」、第2楽章「死」を通じて、チェコ語で死を意味する<smrt>の発音の描く曲線が動機とな
り、特に第2楽章ではタイトルどおり第1テーマにこの動機が現れる。第3楽章「葬送行進曲」の自筆譜は初演の直前にヤナーチェク自身によって燃やされ、、
初演の後、第1、第2楽章もモルダウ川に投げ捨てられた。しかし、初演したピアニストが写譜した第1、第2楽章が残り、これだけが1924年に作曲者の許
可を得て出版された。
現在もブルノのヤナーチェク・アカデミーに隣接する芸術家の家には、犠牲者パヴリークの記念像がかかげられている。
ドヴォルジャーク シルエット(影絵) Op.8
第13回演奏会(97/12/11)
ドヴォルジャークは、チェコ国民音楽の父と呼ばれたスメタナより17年後にモラヴィア地方のネラホゼヴェス村で生まれ
た。ドヴォルジャーク家の人々は大の音楽好きで、父親はチターの名手であり彼自身も若い頃ヴィオラ奏者として活躍していた。ドヴォルジャークの作品のジャ
ンルは多岐にわたるが、そのどれをとってみても、印象的で魅力あふれる旋律からできている。その多くは、田園暮らしを好んだ彼らしくチェコ民謡が基になっ
ており、チェコ語の音律と深い関係があると言われている。
シルエットは、12曲からなる曲集で、1879年(38歳)の作品である。技巧的にスメタナのような派手さはないが、民謡をおも話あせる素朴な旋律の曲が多い。1、5、12曲目で交響曲第1番から引用された同じ旋律が使われとり、曲集全体に統一感をあたえている。
ドヴォルジャーク 詩的な音画 Op.85より
第14回演奏会(98/12/10)
長い間オーストリアとハンガリーの支配下にあったボヘミアは、19世紀後半には民族意識が高まって独立の気運が生じた。ドヴォルジャーク(1841〜1904)は、その師スメタナ(1824〜84)とともに近代チェコ音楽の代表者とされている。
ドヴォルジャークは、スメタナが国民歌劇場の指揮をしていたころ、そこでヴィオラ奏者をつとめており、チェコ国民音楽をおこそうという彼の影響をおおいに受けている。
性格的小品に力点をおいて作品を書き、1889年に作曲された「詩的な音曲」は、ピアノ作品の中で傑作の一つにあげられる。13曲からなるこの曲は1曲づつにタイトルがつけられいる。
<春の歌>チェコ的で春の喜びを表すかのような歌の旋律が、細かい音符にのせられて表現されている。
<古いお城で>シンプルな出だしがすぐに何か不吉な雰囲気へと変わっていく。その城だけが知っているかつての栄光、繁栄は今はもう人も寄りつかない深い森に残されている、そのような視覚的な印象を与えている曲で、時間の流れの静かな重みをも感じさせる。
<農民の民謡>チェコの素朴で家庭的な部分を現している作品である。彼の肉屋兼宿屋を営む家庭で育ったにぎやかな様子がうかがえる。中間部にあらわれる左手のリズムにのせたオクターブのパッセージが華やかである。
<セレナータ>ベルリーニ、ドニゼッティ、ヴェルディらの流行オペラ形式のComical
Serenade と呼ばれる一部を思わせるメロディーである。優しく、上品に楽しめる愛らしい旋律が印象的である。
<.小悪魔の踊り>16分音符のパッセージが小人の妖精がいたずらをしてかけまわっている姿、楽しく踊っている様子、何か夢中になって遊んでいる光景など生き生きとして魅力的に表現されている。グリム童話に出てくるキャラクターを思い起こさせる。
<パッサカーレ>この痔名は「馬鹿騒ぎ」を意味するもので、たくさんの人が踊り騒いでいる様子がフリアントの急速で興奮した気分を持つリズムにのせてあらわされている。はっきりとチェコの要素がでている華やかな作品です。
スーク 愛の歌 Op.7 / お母さんのこと Op.28(1907)
第15回演奏会(99/11/30)
ヨセフ・スーク(1874〜1935)は、ヴィーチェスラフ・ノヴァークとともに、ドヴォルジャークのもとで作曲を修
め、その後継者として見なされていた。1892年以来、有名なボヘミアカルテット第2ヴァイオリン奏者を勤める一方で、ピアノの腕前も確かでコンサートで
自作のヴァイオリン曲のピアノパートを弾くこともあった。1898年にドヴォルジャークの娘と結婚し、現在、世界的に有名なヴァイオリニストのスーク(ヨ
セフ・スーク1929〜)は孫にあたる。
初期の作品は、性格的小品としてまとめられドヴォルジャークやR.シュトラウス、さらにフランス印象派の影響を受け、叙情的な旋律、ロマン主義的な豊かな和声、流暢なパッセージを特色とする。「愛の歌」Op.7はその代表的な作品である。
スークは本来、交響曲「Asrael」や交響詩「Prague」などオーケストラで有名であるが、その中にあって彼のピアノ曲「愛の歌」はスークのなかでもいちばん有名なピアノ曲であり、あたたかみあるやらわかさと熱情の激しさを表している。
1893年から1905年にかけて多くのピアノ曲を書いたが、1904年にドヴォルジャークが、1905年に妻オチルカが相次いでなくなってしまう。
1907年に作曲された「お母さんのこと」Op.28は、幼くして母を亡くした自身の息子の為に生前の母の姿が細かく描写され、非常に個人的な世界を有していて、このような彼の人生経験と当時の現代音楽の進歩により、哲学的でより複雑な和声による深い作品となっている。
この作品は夢見るようで少し悲しげな内省的な雰囲気をたてた5つの小品で構成されており、曲の冒頭には「シンプルなピアノ曲を私の坊や(息子)に献げます」という彼のメッセージが添えられている。
1・お母さんがまだ少女の時
付点リズムの軽やかな伴奏のって、愛らしいメロディーで少女時代のお母さんが表現されている。中間部から「愛の歌」の第1テーマがあらわれる。
2・いつか春の時
アダージョとアレグロを行き来しながら、春の弾むような気分とかっこうのさえずりが描写されている。
3・お母さんが夜なかに、病気の子供に歌った歌
左手のBのオスティナートが病気のつらさをあらわしている。
4・母心
不規則なオクターヴのリズムが心臓の音と心の動きを象徴している。
中間部の美しいメロディーはお母さんのやさしさを表している。
5・思い出とともに
ゆったりしたメロディーで息子に母の思いを語りかけている。
マルティヌー エスキス ド ダンス
第16回演奏会(00/11/28)
ボフスラス・マルティヌー(1890〜1959)は、スメタナ、ドヴォルジャーク、ヤナーチェク以後のチェコが生んだ
最大の作曲家とういわれている。彼は、今世紀でもっとも多作曲家の一人で、それらの作風は幅広く、ヴァライティーに富み、また数多くが未出版であるた
め、、生誕100周年を経た現在も、ある意味で評価の難しい作曲家といわれている。第二次世界大戦中に渡米し、そのの地アメリカとヨーロッパを行き来しな
がら、生涯チェコに帰国することができなかったことも、無関係ではあるまい。作風は、ロマン派の和声と断片旋律、ピアノを含む色彩豊かなオーケストレー
ションを駆使し、3度、3度音程の反復(トレモロ)、シンコペーション、変拍子を多用している。「音楽は美しくあらねばならぬ」が、モットーであった。こ
の曲は全5曲から成っている。
彼の故郷である、モラヴィア民謡やスロヴァキア民謡を用いて、作曲されている。
イェジェック トッカータ
ヤロスラフ・イェジェック(1906〜1942)は、プラハに生まれ、前衛的は劇団(自由劇団)で、作曲家、
指揮者として活躍した。ミュージカル風のコミック的な曲を数多く作曲し、それらの歌は、現在でも大変チェコの人々に愛されている。また、ガーシュインに大
変憧れ、クラシックとジャズの融合した曲を作曲した。政治をパロディー化したミュージカルを作曲したため、アメリカに亡命し、そのまま死亡してしまった。
トッカータは、数少ないピアノ曲のひとつだが、彼の技法のジャズとの融合が、顕著に現れた作品である。
ドゥシーク ソナタ ヘ短調 Op.77 <祈り>
第17回演奏会(01/11/30)
ドゥシーク(1797〜1828)は、その名前より彼がパリやロンドンで用いたドゥシェックという呼び名のほうが一般に知られているのではないだろうか。「ソナチネアルバム」を学習した方ならお馴染みであろう。その人生はまさに波瀾万丈であった。
ボヘミアに生まれ、父にピアノとオルガンを学びプラハ大学に在籍した後ベルギーへピアノ教師として招聘された
のをきっかけにヨーロッパ各地を演奏旅行して渡り歩いた。1782年にはハンブルグでC.P.Eバッハに師事し、83年にはエカテリーナ二世の宮廷でマ
リーアントワネットにも気に入られたが、フランス革命の暴動を逃れ、89年にロンドンに移住し、そこではハイドンと競演するなどピアニストとして脚光をあ
びた。しかし義父と興した音楽出版事業に失敗、破産し99年家族を置き去りにして故郷ボヘミアに帰った。1804年から2年間はプロセインの王子、ルイ・
フェルデナンド公の宮廷楽長を務め、戦場にまで宮廷楽団を率いて各地を転戦したが、王子の戦死により1807年再びパリに向かい晩年を過ごした。
1800年以降の作品においてはロマン派の特質を先取りし、シューベルトやメンデルスゾーン、ショパンやシューマンを予感させる響きが随所に聴かれるが、そのもっとも顕著な例のひとつが彼の死の年に作曲されたメランコリックで壮大なこのピアノソナタである。
この曲は精神状態があまり良くない時期に作られ、完成してまもなくさらにひどいうつ状態に陥った。かれはこの
不幸な状況から解放されることを願っていたというから<祈り>という副題もうなずけるものがある。第一楽章は力強い印象の主題が見事な転調を繰り返し、ド
ラマチックで広がりのある構成となっている。第二楽章は主要部に異例ともいうべきカノンが置かれ、トリオ部分においてはその構成と雰囲気がブラームスのワ
ルツ集「愛の歌」を思い起こさせる。荘厳な美を備えた第三楽章につづく第四楽章ロンドは絶えず悲劇的な響きを持ち、最小はロマンティックなコーダで静かに
終わる。余談だが、彼こそピアノをステージの上に横向きにおき、演奏中の奏者の横顔を見えるようにした最初のピアニストであるといわれている。
ベンダ
ソナタ第1番 変ロ長調、ソナタ第8番 ト長調
第18回演奏会(02/11/29)
ボヘミアにもバッハ一族のような音楽家系が存在した。ベンダ一族である。一族からは多くの音楽家がドイツ方面に移住した。
イージィー・ベンダ(Jiri Antonin Benda 1722
〜1795)<独名/ゲオルク・ベンダ>は、プラハ近郊生まれ。ヴァイオリニストの父に音楽教育を受け、長じてザクセン・ゴータ公フリード
リッヒ3世の楽長となった。宮廷から派遣されイタリアにも学び、ジングシュピールやメロドラマを多数作曲し、モーツァルトもそれらに熱狂する程の人気を博
した。また彼は、CPEバッハと親交深く、CPEバッハとともに前古典派を代表する作曲家とされている。
ソナタ第1番、8番とも短い3つの楽章から成る。
第1番 第一楽章 上下する旋律走句が愛らしい
第二楽章 クラヴィコードの音色を彷彿させる
第三楽章 ナポリ派のオペラブッファ風
第8番 第一楽章 テンポ変化が面白い
第二楽章 素朴な歌謡
第三楽章 ボヘミア民謡風テーマの変奏
ドゥシーク ソナタ ト短調 Op.10-2
ドゥシーク一族もボヘミアの音楽家系である。
ヤン・ラジスラフ・ドゥシーク(Jan Ladislav Dusik
1760〜1812)は、ボヘミア生まれ。19才から自作曲をひっさげてヨーロッパを渡り歩いたヴィルトゥオーゾピアニストである。CPEバッハに作曲を
習った彼は、自身がピアニストのため、創作の多くをピアノの為に物した。
18〜19世紀初頭、ボヘミアの地は多くの音楽家をヨーロッパに輩出しているが、その際名前をドイツ読みに変えることが多い。「ドゥシーク」もドイツでは「ドゥセック」。この名前で「ソナチネアルバム」の中にも曲が収められている。
ソナタOp.10-2は2つの楽章からなる。
第一楽章 メランコリックな響きは、ロマン派を先取りしている
第二楽章 英雄的に始まるが、度々ベルカントオペラのドタバタが見られる
ヤナーチェク ソナタ「1905年10月1日〜街路より」 変ホ短調
第19回演奏会(03/11/25)
ヤナーチェク(1854〜1928)は、チェコのモラヴィア地方に生まれた。若い頃からモラヴィアの言語の抑揚
や民俗音楽に大きな関心をもち、それらを基礎として独自の音楽語法を追求した作曲家である。ヤナーチェクの音楽には、伝統にとらわれない大胆で自由な手法
が示されており、心に響く微妙はニュアンスを醸し出す。このピアノソナタは、当時オーストリアの支配下にあったチェコ(ブルノ)で起こった政治的事件に基
づくものであり、チェコ人青年が軍隊によって刺殺されてしまったというこの悲劇にヤナーチェクは激怒し、書いたとされている。作品には次のような言葉がそ
えられている。
「ブルノのベセドゥニー・ドゥームの白い大理石の階段・・・
素朴な労働者フランティシェク・パブリークが倒れ、血が流れている・・・
彼はただ大学設立の嘆願のためにやって着ただけなのに、
残酷な殺人者によって打たれてしまった」
レオシュ・ヤナーチェク
ブルノ大学創立要求のデモに於いて刺殺された労働者の記憶の為に捧ぐ
もともは3楽章構成であったが、初演を前に終楽章は作曲者自身によって燃やされてしまい、現存しない。
第一楽章 「予感」コン・モート
ソナタ形式に基づく構成で、まとわりつく様なヤナーチェク独自のオスティナートの音型が、
不安な心情の高まりを表現している。
第二楽章 「死」アダージョ
深い嘆きのような静けさの中から始まり、左手の付点リズムによる執拗なまでの動機の反復が、
激しい感情の爆発をみせる。
(99/11/19)
トマジ 風景画
(注・この曲はチェコ作品ではありません)
聞き慣れない名前ですが、管楽器や管楽器を含む室内楽のプログラムにはよく登場する作曲家です。マルセイユに
生まれたトマジ(1901〜71)は、マルセイユ音楽院で基礎教育をパリ音楽院で作曲をコサード、和声をヴィダルに指揮法をダンディに師事、'27年ロー
マ大賞を得て卒業、この作品は、このころ作曲されたものと思われます。'30年インドシナ放送の音楽監督になったころから東南アジアやコルシカ島を素材に
した作品など彼の主要な作品が続々登場しますが、残念なことにピアノ曲はごく少なく、タランテラ、子守唄ぐらいしか見当たりません。
海・・・・・・・かもめ
林の中の空間・・夏の朝
森・・・・・・・鳥のさえずり
各曲には副題がついており、各々作曲家のクレルグ、デュポンそしてピアニストのドワイアンに献呈されています。印象主義の模糊とした感じ、南フランスの明るい自然を反映し、色彩豊かな機知に富んだ作品となっています。
(99/11/19)
ドホナーニ ドリーブの”ナイラ”によるワルツ
(注・この曲はチェコ作品ではありません)
1920〜30年代、当時の大ピアニストたち、フリードマン、ローゼンタール、グリュンフェルド、バウアー、
ゴドフスキー、プロコフィエフなどこぞってシューベルトやシュトラウスのワルツを演奏会用に編曲しています。ハンガリーのドホナーニ(1877〜
1960)もそのひとりで、シューベルト、シュトラウスはもちろん、ブラームスのワルツなども編曲しています。彼はモーツァルトや特にベートーヴェンの演
奏がすばらしかったといわれていますが、若き日のバックハウスもいちはやくこの曲を自分のレパートリーにしていたと言うのには少なからず驚かされます。
"ナイラワルツ"は、ドリーブ(1836〜91)の師であるアダン(1803〜56)のバレエ曲"海賊"の復活上演(1867)に際して書き加えられたもので、"コッペリア"、"シルヴィア"とともに彼の代表作となっています。