ムジカ・ボヘミカ演奏会
チェコピアノ作品・演奏者による曲目解説
第1回〜第9回 

スメタナ 夢
第1回演奏会(85/12/3)
 チェコの国民音楽の始祖といわれるスメタナは、丁度ベートーヴェンがそうであったように音楽家にとって最も大切な聴覚がおかされるという不運にみまわれた。彼は、聴覚を失ってからの最後の10年間、それまでの職務を離れ経済的困窮の中でくらい日々を送っていたが、しかしそれにもかかわらず交響詩「わが祖国」や弦楽四重奏曲「わが生涯より」などの傑作をつぎつぎに書きあげていった。
 彼のピアノ曲中最高傑作の一つに数えられる「夢」は、まさに彼が聴覚を失った直後のもので、この作品の成立は彼の逆境と無関係ではない。当時彼は、聴覚を回復するべく外国の専門医の治療に望みをかけたが、高価な治療費はままならなかった。そんな彼を助けたのは、他ならぬ彼の生徒達で、彼らは演奏会を行うとその収益を恩師に治療費として捧げ、彼がヴェルツブルクやウィーンにまで治療に出かけることができるよう援助した。その返礼を何か創造的な行為で、と考えたスメタナは、一つのピアノ曲を物した。それが「夢」である。したがってこの作品は、生徒に献呈されている。 
 曲は、6つの性格的小品からなる連作で各曲には楽想を暗示する親しみやすい標題がつけられている。連作といっても一つの想念によって全曲が統一されているわけではない。しかし、第一曲の不吉な響きにはじまり終曲の祭りの輝かしい喜びに至る全曲の流れの中に、彼の創造性の純粋で楽天的な面が良く現れている。
 この作品は、まさスメタナにとって彼の真実を語ったものであるといってもよいだろう。


ヤナーチェク 霧の中で
第2回演奏会(86/11/9)
 19世紀後半から20世紀にかけて  -拡張分裂したロマン派音楽が、次の世代を見いだせずに暗中模索していた時代-  レオシュ・ヤナーチェク(1854〜1928)は音楽史の大潮流から遠く離れたところに存在していた。
 ほぼ全生涯をモラヴィアの地で暮らした彼の作品は、西欧の正統音楽からの影響を受けなかった分だけ、チェコスロバキア民族の旋法を感じることができるのである。
 1912年、58才の時に作曲されたこの「霧の中で」も、西欧の絶対音楽的構図を全くもっていない。その様相は、民謡風なモティーフがまるでアメーバのように変形増殖し、一種独特の音楽宇宙をつくりあげているかのようである。 
 第一曲 揺れ動く波状の伴奏上に、悲しげなメロディーが歌いつづられ、やがて日本音階を思わせるような下降パッセージが合わさり、高揚しそして消える。
 第二曲 拍子を把握できないほどにずらされたリズム。安定も得られぬまま、ささやき、爆発し、いらだち、あきらめ、至福をつかみとることができぬうちに曲は終わる。
 第三曲 ほのかに明るい冒頭の旋律が、幾度も呼び合い、霧の晴れ間からわずかに風景が見えるようだ。
 第四曲 グレゴリオ聖歌のような旋法がさまざまに変化しながら吹き降り、不安感をぬぐい切れぬままに突然幕がきりおとされてしまう。
 


スーク 春  Op.22a
第3回演奏会(87/11/11)
 南ボヘミアの寒村、クシェチョヴィツェで生まれたヨゼフ・スーク(1874〜1935)は11才の時プラハに出て音楽学校に入り、ヴァイオリンをベネヴィッツに、作曲をドヴォルジャークに学んだ。
 1898年、ドヴォルジャークの愛娘オティリエを妻に迎え、初めての子供の誕生に際して書かれたのがこの作品で、1902年4月、完成された。湧出する自然の力と逞しい人間の生命力を季節にたとえて「春」と名付けたのだろう。尚、作品22bは「夏の印象」という小品である。
 第一曲 待ちこがれた季節の到来を告げるような出だしの音型と、生き生きとした符点が全体を支配する。
 第二曲 分散和音と弾むリズムは軽やかで、まるで微風のいたずらのようである。
 第三曲 心臓の悪い妻を気遣うAndanteの部分と、わが子の誕生を待ち望む Poco piu mossoの部分が交錯する。
 第四曲 不安な気持ちがつのるが、ほっとするような和音からフィナーレへと続く。
 第五曲 テーマは喜びに満ちあふれ、微妙な和声の変化の上に盛り上がりを見せる。
 全体は5つの小曲によって成るが、第四曲と第五曲が続けて演奏されるほか、第一曲のリズムが第三曲の一部に用いられf(フォルテ)で始まる曲の冒頭を第五曲ではp(ピアノで回想するなど、全曲を通して統一がはかられている。
 スークは作曲家としてばかりでなく、チェコ(ボヘミア)弦楽四重奏団の第二ヴァイオリン奏者として、創立時より40年間に亘って活動をしていた。(因みに、現在チェコを代表する同姓同名のヴァイオリン奏者は孫にあたる)多忙な彼は、演奏旅行中に作曲のスケッチをすることが多かったようである。
 素朴で親しみやすい旋律、豊かな叙情性には師の影響が大きいが、1904年、ドヴォルジャークが亡くなり、次の年には妻オティリエを27才という若さで失った後、彼の作品は変化を遂げ、熟成を増していくのである。
 
スメタナ ポルカ
第4回演奏会(88/)
 美しい山や山に囲まれたボヘミアの自然、素朴な人々、そして陽気な踊り・・・昔から人々に踊り継がれてきたポルカは、スメタナの最も愛した音楽のひとつである。晩年、すっかり聴力を失った彼は、公の職務をしりぞき、娘の住む静かな森に移り住んだ。そこでは、目に映る自然のみが彼の世界のすべてであった。その中で書かれた「チェコ舞曲」は、第一集が4つのポルカ(1877年)、第二集がフリアント、ソウセツカーなどの舞曲を含む10曲の作品集(1879年)で、そのどれ一つをとってみても、彼のやむことない祖国への愛を感じることができるのである。
ポルカ第一曲 春風のようにさわやかに流れるメロディーをもつ愛らしい曲。
ポルカ第二曲 いかにもポルカらしい曲である。4曲中もっとも華やかで、みじかいながらスケールの大きさも感じられる。
ポルカ第三曲 一定の軽快なリズムと突然の変化とが交互に現れ、一たん静まった後再び元に戻り、舞い上がるように終わる。
ポルカ第四曲 民謡のようなやさしいメロディーをもった曲である。
 
スメタナ マクベスと魔女
 
 19世紀のボヘミアはドイツロマン主義の影響が強く、スメタナも同様ではあったが、彼がとりわけ心から尊敬していた人はリストであった。シェークスピアの劇「マクベス」を題材として1859年に書かれた「マクベスと魔女は、最もリストの影響を多く受けていた頃の作品である。楽譜にSkizze zur Scene・・・と書かれてあるように、楽譜は単なるスケッチということで、演奏者にいろいろな工夫がまかされている。人を驚かすように始まるパッセージは、あたかも魔女達の不吉な笑いのようであり、しばらくしてあらわれる誘惑するような不気味なメロディーは、やがてポルカのリズムで再現される。変化に富んだおもしろい曲である。
 

ノヴァーク  思い出 Op.6 
第5回演奏会(89/11/6)
 ヴィチェスラフ・ノヴァーク(1870〜1949)は、スメタナやドヴォルジャークを中心として19世紀のチェコスロヴァキアに登場した「ボヘミア楽派」に続き「ボヘミア楽派第二世代」として、ヤナーチェクやスークと共に活躍した作曲家である。彼は、貧しい少年時代を送り、苦学してプラハの大学で法律と哲学を学ぶ傍ら、プラハ音楽院で音楽を勉強した。後に、プラハ音楽院で作曲を教え、院長も歴任するなど、音楽教育に力を注ぎ、微分音音楽で知られたハーバを初めとして、彼の教えを受けた優れた作曲家が数多いことから、チェコスロヴァキアの現代音楽に最も強い影響を与えた一人とみなされている。 
 ノヴァークは、生涯を通じて、ブラームス、ドヴォルジャーク、R・シュトラウスといった人たちの影響を受けており、さらに、モラヴィア地方の民謡などの民俗音楽との融合を確立するにいたっている。1894年に作曲された「思い出」は、彼の初期の作品の特徴を良く表しており、さきに挙げた作曲家たちの影響が特に強く見られる。この作品は3つの性格的小品から成る組曲で、それぞれロマン的な標題が与えられており、曲全体が暗い情趣におおわれている。この情感は、病弱な上に、父の死による経済的困窮を経験したノヴァークの少年時代の思い出が投影されたものと言われているのだが、多感な青年期特有の憂愁に溢れた佳作となっている。
 なおこの作品はパデレフスキーへの献辞とともに、ジムロック社から1896年に出版された。
第一曲< トリステ(悲しみ)>
 神秘的な響きの和音の序奏に続いて、悲しみに満ちた主題が静かに現れ、次第に激しさを増していく。この激情がおさまると、対位法的手法によって厚みがもたらされた主題が再び現れ、クライマックスに達する。最後に、遠い悲しみを回想する余韻が冒頭和音によって表される。
第二曲<インクイエト(不安)>
 シンコペーション・リズムのうねるような旋律によって激しい不安を感じさせる主題と、ひとときの憩いを思わせるような美しい旋律で始まる中間部から成っている。コーダでは、中間部の主題が示された後、主部の主題の断片が切れ切れに現れ、やがて力を失ったかのように消えていく。
第三曲<アモローゾ(愛)>
 主部では、柔らかな陽光のような和音の上でまさにアモローゾ的主題が存分に歌われる。左手が波のような音型に変化する中間部では、その動きに導かれるようにして、ついに歓喜の頂点へと至る。最後では、左手に現れた冒頭の主題が遠い愛の思い出のように響き、安らぎと満足のうちに曲を閉じる。


ヤナーチェク 草陰の小径にて 第一集 
第6回演奏会(90/11/7)
 ヤナーチェク(1854〜1928)は、チェコスロヴァキアのモラヴィア地方に生まれ、その民俗音楽を素材として独自の音楽を確立した作曲家である。19世紀に勃興したチェコ民族主義音楽は、スメタナやドヴォルジャークによって基礎を築かれたが、ヤナーチェクに至ってその民族的傾向は、より明白になった。しかも彼が、ハンガリーのバルトークに一歩先んじて、モラヴィア民謡の収集・編曲・出版を手がけ、創作にあたっては、その民謡を分析し語法だけを抽出して現代的に発展させている点でな注目に価する。
 「草陰の小径にて」(1901〜11)にもみられる物語風の旋律法、頻繁な拍子記号の変化、拍子に区切りにくいような微妙なリズムの動きなど、モラヴィア民謡の語法に基礎をおいたものである。
 「草陰の小径にて」というタイトルは、民族詩からとられたが、個々の曲には彼の生まれ故郷の町フクヴァルディで過ごした幼少の頃の思い出と共に、ちょうどこの曲集が書かれた頃、最愛の長女オルガに21才の若さで先立たれたり、彼の代表的オペラ「イェヌーファ」が期待通りに上演されないなどの苦しくつらい体験も反映されている。
 第一曲 "我らの夕べ"
 第二曲 "落ち葉"
 第三曲 "一緒においで"・・・民謡に基づいた、一種のポルカ
 第四曲 "フリーデックの聖母マリア"・・・オルガンの響きに導かれて、聖歌の調べがだんだん近くにきこえてくる。
 第五曲 "彼はつばめのようにしゃべりだした"・・・フクヴァルディの小学校での思い出
 第六曲 "言葉もなく"・・・ヤナーチェクの細かい音符の上下運動の中に「失意の辛さ」を表したと説明している。
 第七曲 "おやすみ"
 第八曲 "こんなにひどくおびえて"
 第九曲 "涙ながらに"
 第十曲 "みみずくは飛び去らなかった"・・・窓ガラスに向かって飛んでくるみみずくの一種を追い払えないと、家の中にいる病人は、もう助かる見込みがないという民話にもとづいている。  


スメタナ スケッチ 第一集 Op.4 より
スメタナ スケッチ 第二集 Op.5 より
 
第7回演奏会(91/11/6)
  ベドルジフ・スメタナ(1824〜1884)は、ごく早い時期から作曲活動を始めたが、彼自身が優れたピアニストとしての腕前をもっていたため、多数のピアノ作品をのこしている。1840年代のプラハには、モーツァルトやベートーヴェンを愛好する保守的な人々にたいして、新しく興ったロマン主義音楽を支持する若い音楽家たちのグループがいたが、スメタナもその若い音楽家たちの例にもれず、ドイツロマン主義の影響を強くうけていた。 
 ことに、彼のピアノ曲へのシューマンの影響は大きく、シューマンの標題付きピアノ曲の手法をモデルとした数多くのキャラクター・ピースを書いている。
 「スケッチ Op.4」と「Op.5」は、これらのキャラクター・ピース集のなかの2つであり、それぞれ標題をもつ4つずつの小曲で構成されている。
 「思い出」は、昔話を聞いているような、ほろにがく、そしてなつかしいメロディーをもっている。
 「なつかしい景色」は、スメタナが心から愛した、ボヘミアの美しい野山にふくそよかぜ、そして谷間をながれるせせらぎの音を感じさせるような曲である。
 なお「スケッチ Op.4」と「Op.5」はともに、クララ・シューマンに捧げられている。
 

スメタナ チェコ民謡による演奏会用幻想曲

 17世紀から続いていたオーストリアによるチェコ支配は、1860年代になるとゆるみはじめ、それまで抑圧されてきたチェコの民族運動がいちだんと高まっていった。1861年に、以前は禁止されていたチェコ語の新聞が発刊されたのにつづいて、チェコ民族の長い間の願望であった国民劇場が、まずは仮劇場として1862年に開かれた。
 この年に「チェコ民謡による演奏会用幻想曲」が書かれたが、スメタナは民謡を安易につなぎあわせることは好まず、当時スメタナが強く影響を受けており、また、演奏家として彼の理想としていたリストの手法をまねて、卓越したテクニック必要とする作品となった。
 曲中では、ボヘミアの美しい自然を歌った第一曲、悲しい愛の心を歌った第二曲、おどけたリズムが印象的な第三曲、そして軽やかで愛らしいワルツの第四曲が、それぞれさまざまな変化に富んだ装飾をほどこされて紹介されている。


マルティヌー エチュードとポルカ より 
第8回演奏会(92/11/4)
 ここ数年のうちに嵐のように実現したチェコを含む東欧の民主化に接するとき、時代に翻弄された多くの芸術家の苦難に満ちた運命にもまた思いを馳せる。ボフスラフ・マルティヌー(1890〜1959)の生涯も、その例にもれず故国に心を残したままでの流転が長く続いた。
 もともとマルティヌーはヴァイオリニストとしてチェコ・フィルに名を連ねるほどの腕前であったが、33才1923年の時、心機一転パリに渡ってアルベール・ルーセル門下に入り、作曲家としての頭角を現し始める。この留学中に祖国チェコスロバキアはドイツに解体され、1940年のパリ陥落に至っては危険な民族主義者としてナチスにも追われてて、ついに彼は翌年渡米せざるを得なくなる。戦後は一時帰国して、プラハ音楽院で作曲の教鞭をとったものの、共産主義と敵対して再渡米、市民権を得たのちスイスに移住して波乱の生涯を終えた。
 こうした人生の一方、皮肉なことではあるが彼の音楽は避けることのできない時代の波に揉まれることによって、より鮮やかに開花したと言えるのではないだろうか。つまり、パリ留学によってスメタナやドヴォルジャークに支配的であったドイツ音楽の流れから決別して印象主義の手法を学んだこと、また渡米後にジャズやラグタイムなどの新しい響きと接してその影響を受けたこと、そしてもう一つ重要な事は、祖国を遠くに離れて祖国を想うときの、祈りにも似た深い郷愁をいしきしたことであろう。
 「エチュードとポルカ」は3巻16曲から成る曲集で、戦争の終わった1945年の夏にアメリカのマサチューセッツ州ケープ・コードでつくられた。
 この魅力的で小さな世界にマルティヌーは四つの異なった側面を見せる。
 その一つはエチュードにおける精緻な書法、二つめはポルカの中にしばしば顔を覗かせる子供の様な無邪気な表情、三つめはアメリカ音楽を巧みに織り込む自由な発想である。そして四つめは切々と流れ出る旋律に忍ばれる祖国への愛着だろう、その旋律はある時には少々寂しさを伴って、またある時には草の香をも運ぶ。マルティヌーの心の解放は音楽の中にあって、それゆえ今のなお色褪せることなく祖国と共にあるのである。
 


 

 


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